印刷を学ぼう─印刷の歴史編
●印刷の始まり~それは中国から
いまから3000年以上の紙がなかった時代の中国で,王様が大切なおふれをだすときの方法として,『割符(わりふ)』というものがつかわれていました。これは,文書を竹に書いたあと,それを二つに割ります。割ったひとつは王様がもち,もう一つはあいてに渡します。これは,「二つあわせてぴったりあったら,本物」とわかるようにするためでした。
しかし,人々のくらしや政治のしくみのふくざつになってきた紀元前2世紀には,文書の量がふえてきました。こうふえては,『割符』ではなにかと面倒です。そこで『割符』にかわり,『ねんどにはんこをおす』ことによって文書を封印するやり方がでてきます。ねんどで大切な文書の封をして,そのうえに『はんこ』を押しつけました。これは,“本物の文書であること”“まだあけていない”ことを証明するためのもので,それにより『はんこ』が発達したといわれています。
これらの時代にはまだ紙が発明されていませんでしたが,105年に,中国の蔡倫(さいりん)によって発明されると,はんこを押す習慣が多くの人たちにひろがってゆきました。
こうしてひろがっていった『はんこ』は,木や石にほって色をつけたくない部分をけずるおなじみの『版画』の技術をつかっています。この二つからさいしょの印刷は始まったのでした。
さて,中国に,孔子(こうし)という「儒教(じゅきょう)」とよばれる学問のえらい先生がいました。儒教を学ぶ人たちは,大学の門の前にある,彼の文章が彫りつけられている石碑(せきひ)と,自分が書き写した文章に写し間違えがないか,何度も何度も確かめなくてはならなかったのです。これでは,手間がかかってしょうがありませんね。
そこで,その石碑から『拓本(たくほん)』をとることを思いつきました。拓本とは,「もとになるものの上に紙をのせて刷るやりかた」です。コインの上に紙を置いてえんぴつでこするのとにています。この方法だと,多くの人に間違いなく同じ文章が行きわたることになりますよね。
この当時は「もとになるもの=版」が『石』でしたが,7世紀頃からは『木』にかわってきました。こうなると,もうおなじみの「木版画」です。
●中国での近代印刷~「活字」の誕生
木版をつくるには,かなりの手間がかかりますが,一度作ってしまえば同じものが印刷できます。その印刷の技術をとりいれたのが,仏教です。「仏教の教え」をたくさんの人に広めるにはこの方法が一番むいていると気づいたのでした。
このころの版は,一枚の紙に刷るだけの文章を一つの木の板に彫り込んでいましたから,一文字でもまちがったら,大変です。そこで,もっと効率よくできる方法はないかと考えられた結果,一文字一文字ばらばらにして何度も使える,『活字』が誕生するのです。
『活字』とは,「小さな直方体に鏡文字(かがみもじ:ふつうとは左右反対の文字)をほりつけたもの」のことです。印刷するときはこの文字ひとつひとつ拾い出し,箱につめて版を作ります。刷り終われば,また元に戻さなければならないし,ひとつひとつが手作りだったため,とても手間がかかって大変でした。しかし,一つの文字が何度も使えるので,その当時はかなり画期的だったといえます。
こうした方法の印刷により,中国で本がいっそうさかんにつくられるようになりました。10世紀から14世紀の中国の宋(そう)の時代,馮道(ひょうどう)という大臣が国を挙げて印刷に取りかかることをすすめ,本がたくさん出版されました。つまり,今までのように本を書き写さなくてもいいし,いろんな書物をたくさん読んで,たくさんの学ぶことができるようになったのです。
『活字』が誕生した最初ごろの11世紀の中国の『活字』は,ねんどを焼いて作った『陶製活字』でした。しかし,14世紀のはじめには錫(すず)や木の活字が作られ,14世紀の末には朝鮮で,銅を流し込んでつくった『金属活字』が発明されました。しかし,この版をつくるには,かなりの手間とお金がかりましたし,なにせ文字の種類がおおい中国でしたので,『陶製活字』や『金属活字』よりも,『木版』によるものがおおく使われていました。いっぽう,『金属活字』は文字の種類が少ないヨーロッパでおおく使われていました。
しかし,木版では,厚い紙に印刷することがむずかしかったので,うすい紙に片面印刷をするまでにとどまっていたのです。
●日本での印刷
6世紀の中ごろ,日本にも中国をへて韓国から仏教が伝えられました。その布教にも印刷技術がかつやくしています。
7~8世紀ころの日本は,その当時の中国である唐(とう)の文化をたくさん取り入れ,唐に遣唐使(けんとうし)や留学生をたくさんおくり,文化や品物を輸入していました。奈良の大仏が建てられたのもこのころです。
そのころ,日本には称徳天皇(しょうとくてんのう)という女性の天皇がいました。彼女は,たいへん仏教に力を入れ,道鏡(どうきょう)というお坊さんに位をあたえ,政治をまかせたのです。その道鏡が770年,国中のお寺にお経をひろめるため,100万巻の『陀羅尼(だらに)のお経』を,国中の大きな寺にそれぞれ10万巻ずつくばることにしました。このときの印刷方法は,中国から伝わってきた印刷方法によるものです。また,このときに刷った『陀羅尼(だらに)のお経』が世界に残る一番ふるい印刷物です。
ところがそれ以後の300年ものあいだ,日本の印刷はまったくおこなわれませんでした。文字が読める人は一部のえらい人たちだけでしたので,たくさん印刷しなければならないといった必要がなかったからです。ですから,みなさんご存じの『源氏物語』はなんと手で書き写されたものなのですよ。
12世紀ごろからは,ふたたびお経が印刷され始めますが,このころの学問は武士などのごく一部の人たちのものだったので,やはり,あまり多くは印刷する必要がありませんでした。
ところが,江戸時代(1600~1867年)になると,商業がさかんになり,町民たちの間でも文字を読み書きできる人がふえてきました。商売をするのに,「読み・書き・そろばん(計算)が必要 になってきたからです。このころ,寺子屋で町民の子供たちは読み書きを学び,1870年ごろには10人のうちに6人が文字が読めるようになり,「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」や「日本永代蔵(にほんえいたいぐら)」,カラフルな「浮世絵」などの『文芸作品』やテレビでおなじみの『かわら版』も木版により印刷・出版され始めました。ようやく日本も印刷文化が誕生したのです。
●ヨーロッパでの印刷の始まり
それでは,ヨーロッパではどうだったのでしょうか?
紀元前6~紀元後4世紀ごろのヨーロッパでもさかんに本が作られていました。宗教の布教からひろがった中国や日本とはちがい,ヨーロッパでは,「哲学の本」や「詩と文学の本」「科学の本」が中心でした。
しかし,5世紀ごろ(中世)には文化的な活動があまりされなくなり,「科学の本」は神の教えに反するものとして忘れ去られ,本と言えば,教会の中で僧侶たちが一冊一冊書き写した聖書がほとんどでした。
14世紀~15世紀になると,ヨーロッパのイタリアを中心に時代が大きく変わり,産業や貿易がさかんになり,職人(芸術家)や商人は商売をするのに必要な読み書きをおぼえて,市民がゆたかになってゆきます。
15世紀の中ごろにグーテンベルクが印刷技術を発展させるまで,読み書きは本を手に入れる一部の人にしかできませんでした。しかし,一度に同じ本がたくさんできるようになり,本の値段が安くなったため,多くの人々が読み書きできるようになりました。このころルネッサンス(文芸復興)と呼ばれる時代が幕を開け,新しい「思想書」や「技術書」や「文学」といった様々な種類の本が出版され,文化が大量に,正確に,早く人々にひろがります。ルネッサンスの大きな出来事である『宗教改革』では,ドイツの宗教家マルチン・ルターが自分の考えをつぎつぎにドイツで印刷・発表し,多くの人々に影響を与えています。
こうしてルネッサンス以後,ヨーロッパの文化はめざましく発展して行きますが,その陰には印刷の発展があったからだといわれています。
●大量印刷の幕開け~グーテンベルクは印刷の父
みなさんは,「印刷」と聞いてすぐに思いつく人はドイツのグーテンベルクではないでしょうか?
彼は15世紀中ごろ,本を印刷しはじめます。
彼の印刷に必要だったものが4つあります。
一つめは『紙』。
前にもかいたように,105年に蔡倫(さいりん)によって発明され,ヨーロッパでは12世紀ごろにさかんにつくられています。
二つめは『金属活字』。
大量の本をつくるには,『何度も使えるじょうぶな金属活字』が必要だったのです。中国にくらべ,ヨーロッパの文字はかなり種類がすくなかったので,この方法が発達したのです。
つくりやすく,じょうぶな活字をつくるために,活字は錫(すず)とアンチモンと鉛を溶かしたものを型にながしこんで作りました。活字をつくる『型』は黄銅(または青銅)でつくられ,なんども繰り返して使えるようにし,その底にはとりはずしのできる金属の母型をとりつけ,型に流した活字が取り出しやすいように工夫をされていました。型から取りだした活字は一本一本の高さをそろえて刷りやすくしました。
三つめは『インク』。
木版用のインクは,金属活字向きではありませんでした。そこで,15世紀のはじめに作られていた『銅版画用のインク』を利用しました。これは,すすを油でねってつくったものです。
四つ目は『印刷機』。
平らな版をつかって,印刷物を大量生産するには『はんこ』のように強い力で『版画』のようにいちどに紙に押しつけるのが簡単な方法です。ざんねんながら,彼がはじめにどんな印刷機をつくったのか正確にはわかりませんが,その後に改良したグーテンベルク型印刷機によって,だいたい知ることができます。ちなみに,当初の印刷機は 木製 です。
グーテンベルクが発明した印刷機での印刷工程はこんなかんじです。 そうぞうしてみてくださいね。
- 二人一組でおこなわれていた。
- 活字を組んだ2ページ分の版を印刷機のレールにのせる。
- 一人が紙を木枠にとりつけ,もう一人が版におおきな皮の
タンポをこねるようにしてインクをつける。 - とりつけた木枠の上に紙をかぶせて,印刷機の下にすべりこませる。
- ハンドルをひくと上から板がおりてきて,その強い力によって紙をおす。
1455年,グーテンベルクは『42行聖書』を刷りました。のちの1973年,アメリカの古本業者から日本に売り出されたときに,なんと7億8千万円の値がついたのです。なぜ,こんなにも高値がついたのでしょうか? その聖書自体がめずらしいもの,というわけではないのです。この書物は近代的な印刷の出発点であり,文化も中世から近代へとうつったことをしめしている歴史的に大変貴重な本だったからです。
●日本の近代印刷~日本の印刷の父・本木昌浩
江戸時代の日本は海外からの侵略をおそれ,1639~1853年の間に『鎖国』をおこなっていました。このおかげでヨーロッパなどの印刷技術から大きくとりのこされてゆきます。
すでにこのころのドイツでは1600年,『金属活字』によって新聞が発行され,1798年,印刷機は『木製から鉄製』へとかわり,1814年,『蒸気機関(じょうききかん)を使った印刷機』からその50年後,1時間に2万枚以上の新聞を刷ることが可能な『輪転印刷機(りんてんいんさつき)』が発明されていました。また1833年には1時間に6万個の活字を鋳込む『活字鋳造機(かつじちゅうぞうき)』がうまれて,今まで手で一文字一文字拾っていた活字も,あっというまに文字を拾えるようになります。
1867年,江戸幕府がたおれてから明治政府はいままでの技術や文化の遅れをとりもどすべく,ヨーロッパなどから進んだ文化をとりいれることにしました。その結果,明治のはじめに洋式の『製紙術』と『印刷術』がはいってきます。『製紙術』とは,「紙をつくる技術」のことです。
「印刷機」は外国から買ったそのままでも使えるのですが,「漢字」「ひらがな」「カタカナ」という日本語の活字は自分たちでつくらなくてはいけません。これに成功したのが『本木昌造』です。彼は外国から入ってきた印刷物を見て,日本でも「西洋式の印刷技術を取り入れたい」とかんがえたのです。そうして,1869年長崎に日本語の活字の製造販売会社を設立しました。アメリカの印刷技術者から活字の母型のつくりかた,鋳造法を学んで,「明朝体(みんちょうたい)」と呼ばれる書体で6種類の大きさの鉛の金属活字を作るのに成功します。これが大きな反響を呼び,つぎつぎと活字をつくる会社がうまれたのでした。
こうして,明治元年から9年にかけて発行された本は約3600点にものぼり,みなさんご存じの福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)の「学問のすすめ」もこのころ発行されています。新しい印刷技術は本ばかりに使われたわけではなく,明治3年には新聞が,明治14年には紙幣を印刷し,発行され,日本は近代国家への道をあゆみはじめていったわけです。